ホンネ

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2023/04/04 大石えま

決意から出産までのことVol.2

決意から出産までのことVol.2

7月の初め、産科のT医師と

新生児科のK医師(のちの主治医。以降は主治医と表記させていただきます)、

そして、わたしたち夫婦で、
出産の方法、お腹の外へ出た赤ちゃんが息をしていなかったり、息ができなかったり…となった時に
「どの程度」助けるのか。そんな話し合いをしました。

まずは主治医から

「お父さんお母さんは赤ちゃんを「どの程度」助けたいと思っていますか?

…まず、助けたいと思っていますか?」

そんな問いかけがありました。

助けるイコール産まれてきて間もない赤ちゃんに

いわゆる、人工呼吸器を、口からこのように「挿管」させることになります。と。

人工呼吸器挿管のイメージ
赤ちゃんに挿管するとこのような感じになります。

そう言われても、わたしたちは迷いませんでした。

(でも、この時はまだ色んな事を想像するに

知識が足りていなかったことを、のちに思い知らされます。)

「救える手段があるなら、

赤ちゃんを助けてください。」

そう伝えました。

そうすると、出産の方法は自(おの)ずと決まりました。

経膣分娩だと、狭い産道を通らないといけなくて骨折のリスクが上がること、

どうしてもお産の最後の方は赤ちゃんをひっぱったりもしないといけなくなり、

やっぱり赤ちゃんの骨折のリスクが上がる。

そうなると命の危険度も上がる。

それを防ぐには『帝王切開術(ていおうせっかいじゅつ)』が1番赤ちゃんにとって安全だ、と判断されたのです。

しかし医師らはこうも話しました。

それは次の妊娠への影響を考慮しての話でした。

「この子は、亡くなってしまう可能性が高い。

亡くなる可能性の高い命のために、

わざわざお腹を切る手術である『帝王切開術』を選ばなくてもいいんじゃないのか?」と…

「まだ大石さん(わたし)は若い。次の機会があるよ」と。

医師らのおっしゃることはよく分かります。

医師としても、人としてだってきっと、間違ったことは言っていない。

『だけど、それは違うよ…

お腹の赤ちゃんはひとりだけ。

この世にひとりだけ。

わたしたちにも代わりなんていないように

この子の代わりなんて、いない。

わたしたちはこの子がいい。

この子に会いたい。

この子が助かる方法があるならなんとかしてあげたい。

だから、次の機会が、、とか考えられない。』

あの時のわたしは、そんな気持ちでいっぱいだったように思います。

そうして出産方法は『帝王切開術』に決まり、

陣痛がくる前にあらかじめ入院する日を決めて

この日、と予定をしての出産になりました。

(これを予定帝王切開といいます。)

誕生日を決められるなんて、不思議な気持ちになったことを覚えています。

わたしの出産はそれでも『普通』の『予定帝王切開』とは違い

産科のT医師、新生児科の主治医がそろっている日でないと出産が難しい状況でした。

とくに呼吸器に強い、新生児科の主治医じゃないと、産まれてきたばかりの小さく、せんさいな赤ちゃんへの挿管はなかなかの至難(しなん)のわざだったのです。

急に予期せぬ陣痛がきたりして、お2人がそろわない日の出産にならないためにも

出産予定日より少し早めに入院をして万全を期すことに決めました。

このころのおなかの赤ちゃんの成長曲線は

白黒の3本線が平均なのに対して

おなかの赤ちゃんの成長曲線は写真の水色のマーカー線のとおり、あきらかに下回っていました。

頭だけはぎりぎり成長曲線の平均に入っているのは、この病気の特性だと言われています。

入院の日が近づいて、検診もあと数回になってきたある日の診察で

産科のT医師が「いよいよだね」とわたしに話しました。

…正直、不安と、なかなか受け入れることのできない現実が目の前に迫りくるような感覚で

かなり情緒が不安定になっていたのです。

(出産が近づくということは、もう赤ちゃんとはお別れなんだね…)

今振り返れば、

「わずかでも、おなかの赤ちゃんの生命力にかけたい!」

…なんて、かっこうのいいことを言っておきながら

本当はわたし自身、のぞみをもつことをしていなかった…

のぞみをもって、それが叶わなかったときのことを考えたら怖かった…

自分自身が壊れてしまう想像しかできなかった…

自分を守るために、少しずつ『失う準備』をしていた。

だけど実際はぜんぜん『失う準備』なんてできていない…

エコー診察をするため、診察ベットにうつり、あふれだしそうになる涙をこらえた。

涙目になっているであろうわたしに気付いたT医師が、

「大丈夫?」とわたしに聞きました。

わたしは、うなずくしかできませんでした。

…だけどうなずいたら涙が流れてきました。

「大丈夫じゃないやん。」

T医師が言いました。

涙が、ひとつぶ流れたらどんどんあふれてくる。

看護師さんが涙をふくガーゼを渡してくれました。

この病院のガーゼには、娘が退院するまでの約2年間

何度もお世話になりました。

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